プラトン『饗宴』の初級註釈書

後半をしばらく放置していましたが,本文はこれで読了.

Louise Pratt氏によるプラトン『饗宴』の初級向け註釈書です.『饗宴』は話の場面がやや複雑で,ソクラテスも同席した宴の様子をアリストデモスがアポロドロスに話して聞かせ,その内容を今度はアポロドロスが友人に語ってあげるという形式になっています.そのため慣れないうちは,話の内容よりもこの入り組んだ間接話法に手間取ってしまう欠点がありました.そこでこの本は前半部分をすこし読みやすく書き改めて,途中(Reading 6)からBurnet版(OCT)に準拠したStephanus number入りのテキストへ移行する形をとっています.
巻末に語彙集があり,註釈も初学者への配慮あるものとなっています.一点気になったこととしては,文法事項を参照させる場合に,同じ著者の初級文法が指示してある箇所もあるのですが,Smythへ一本化してほしかったということでしょうか.

ギリシア語の初歩を終えた次のステップとしてとても好い本だと思います.

Louise Pratt, Eros at the Banquet, University of Oklahoma Press, 2011

Eros at the Banquet: Reviewing Greek With Plato's Symposium (Oklahoma Series in Classical Culture)

ナオコサン第5巻

ついに完結!
ちなみに連載9年,全108話とのこと.

あっさり可愛いキャラクターとは対照的なきわめて濃いネタがツボに入って熱心に読み出したのはいつのことだったかもう思い出せないくらいですから,感慨深いものです.以来著者の出版物を手に入る限りで少しずつ集めるようになったのでした.いずれ当図書館にもopera omnia kashmirianaのでき上がる日がくるでしょうか…

kashmir, 『百合星人ナオコサン 5』,KADOKAWA 2014

百合星人ナオコサン (5) (電撃コミックスEX)

2014春アニメ

あまり観られていませんね……情けない話ですが.
とりあえず深夜は

あたりでしょうか.
でも,このほかに『ガンダムビルドファイターズ』や『咲 -saki-』(1期)の再放送*1と『アイカツ!』があるので,案外楽しく過ごせています.

*1:BS JAPAN 木曜 26:28〜.

Ope ingenii...

2009年に『アエネイス』の新しい校訂本を上梓したGian Biagio Conte氏が,新しく本文批判(textual criticism)に関する本を出されたようです.簡単に紹介を.

全体は「句切り」(Punctuation),「改竄と削除」(Interpolation and Athetesis),「破損と推定読み」(Corruption and Conjecture)という3章から成っており,著者自身がこれまでに強い印象を受け驚嘆したさまざまな校訂の実例を,その歴史的背景や思考の道筋を解説しながら紹介していく造りになっています.
印象深い箇所を挙げますと,たとえば,エウリピデス『ポイニッサイ』の冒頭2行が改竄と判明するまでの経緯は知的興奮に満ちていますし*1,「健全な身体に健全な心…」でおなじみのユウェナリス『諷刺詩』第10歌356行が実は改竄の可能性が高いことには度肝を抜かれました*2.第3章に挙げられた,一見問題のなさそうなテキストに潜む破損を見つけ出す鋭い推定読みの数々には,月並みながら「問題を解くことより問題を見つけることのほうが大事」という言葉の大事さを改めて認識させられますね…
ところで個人的にもっとも興味深かったのは改竄(interpolation)の問題をあつかった第2章です.上述の『アエネイス』を御覧になった方はご存知のとおり,著者の改竄に対する姿勢は非常に厳格で,決してこれを許さないというものですが,それがよく現れていると思いました.緻密な論理を積み上げて真正ではない本文を除去するところに文献学者の執念を見る気がします.

タイトルのope ingenii《才能の力によって》とは,ope codicum《写本の力によって》という言葉と対になる校訂のあり方です.碩学の慧眼によって実現した名校訂を集めた本書は,まさに序文にあるとおり,ひとつのすぐれた個人コレクションと言うべきものでしょう.

Gian Biagio Conte, Ope ingenii: Experiences of Textual Criticism, Walter de Gruyter 2013.

Ope ingenii: Experiences of Textual Criticism

補記:英語版を読んだ後で知りましたが,イタリア語版はこれよりはるかに安いようですね.ちょっとショック…

*1:pp.32-5.

*2:pp.63-5.

カルヴィーノ『アメリカ講義』を読んで

ハーヴァード大学ノートン詩学講座(1985-86)のために準備されながら、結果としてカルヴィーノの遺著となった作品。「軽さ」「速さ」「正確さ」「視覚性」「多様性」と題された5つの章に、一連の講義の第1回として用意されていた「始まりと終わり」が補遺として収録されている。取り上げられたテーマには、普通文学とは結び付けられないようなものがみられるが(e.g.軽さ、速さ)、それらはカルヴィーノ作品において大きな意味を成すものである。

今回は、カルヴィーノが本書の中でたびたび言及し、講義全体においても重要な位置を占める二人の古典作家に注目したい。すなわちルクレティウス『事物の本性について』とオウィディウス『変身物語』とである。この二作品が、「軽さ」「速さ」「多様性」といったカルヴィーノ的な観点から新しく捉えなおされていく。

まず、「軽さ」についての講義の中で、カルヴィーノは次のように言う。

私はいっさいの重苦しさが解きほぐされるような見方を養ってくれる滋養を科学に求めているというわけです……*1

彼はこのような視点からの「詩と科学の融合」の源流をルクレティウスにもとめる。実際、ルクレティウスは、重い宗教に押しつぶされた人間の生をエピクロス哲学によって解放し、万物を、原子と空虚という「軽やかなもの」に解体する。そして「その勝利は我々を天へと高める」とまで歌うのである*2。ここでは科学と詩という一般に相反すると考えられるふたつのものが見事な調和を見せている。ルクレティウスの歌う自然は、エピクロス哲学の原子論という科学的な視点によって却っていきいきとしたものになっているのである。こうして原子同士の多様な結びつきから想像力を獲得するルクレティウスに、カルヴィーノは「万物が万物と無限に関係し合う体系」というモデルを見出だす*3。この視点はオウィディウスの『変身物語』にも共通している。変身譚の集成に過ぎず緊密性がないと言われることもあるこの作品の短所は、今や「変身/変容(Metamorphoses)」を通して諸事物間の果てしない連関を提示するという長所へと逆転する*4。そしてこれが、講義の後半で論じられるガッダやムージルプルーストボルヘスといった現代文学のもつ「百科全書的」性格とつながりを持ってくるのである。

すなわち百科事典としての、認識の方法としての、またとりわけ世界の事物や出来事や人間の関係の網の目としての、現代小説というテーマ……*5
二十世紀の偉大な小説のなかで形を表すのが、開かれた(aperta)百科全書という観念です。*6

このように「軽さ」や「速さ」というカルヴィーノ作品において重要な意味を持つ主題を通して、ルクレティウスオウィディウスに新しい光が当てられていくさまは見事と言うよりない。今回触れたのは全体のごくわずか、ごく一部に過ぎないが、これだけをもってしても大変刺激的な作品だと言えるだろう。

カルヴィーノ(米川良夫・和田忠彦訳)『アメリカ講義―新たな千年紀のための六つのメモ―』、岩波文庫 2011
カルヴィーノ アメリカ講義――新たな千年紀のための六つのメモ (岩波文庫)

追記:実はこの書物を読み始めたのはある方に教えられたのがきっかけでした。もしかしたら知らなかったかもしれない世界を教えてくれたことに重ねて感謝!

*1:p.26.

*2:Lucr.1.79.

*3:p.196.

*4:すると15巻のピュタゴラスの教説も違った角度から読めるかもしれない。

*5:p.187f.

*6:p.204.

食べる、寝る、そして…

くーねるまるた』既刊分読了。

ポルトガルから東京の大学院へ都市工学を学びに来た女の子・マルタさんの
ビンボー&食いしんぼーな日々を描く料理漫画。毎話の節約レシピもさること
ながら、すっきりとしたデザインのキャラクターに細部まで書き込まれた背景や
小物が作品世界を豊かなものにしていると思います。

この作品のテーマは、タイトルにもあるとおり「食べること」と「寝ること」
なのだけれど、それに加えてもうひとつ、「読むこと」があると言えるかと。
実際、作中にはレシピの由来として多くの本や作家が登場します。

食べて、寝て、読む。何でもないようなこれらのことでこんなにも幸せそうに
生きているマルタさんの姿は、大きな世界の小さな隙間で上手に生きていかねば
ならないこれからの私たちにとって少なからぬヒントとなるのかもしれない。

高尾じんぐ、『くーねるまるた 1, 2巻』、小学館、2013
くーねるまるた 1 (ビッグ コミックス〔スペシャル〕)
くーねるまるた 2 (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)

垂翅の客

草森紳一『李賀 ―垂翅の客―』,芸術新聞社 2013

読了。

 古来難解で知られ,「註なしには読めない」とも言われた
中国唐代の詩人・李賀の評伝。もともと思潮社の『現代詩手
帖』に第二部まで連載され未完に終わっていたものが,小説
「悲しみは満つ 千里の心」とともにこの度一冊にまとめら
れた。

 副題の「垂翅の客」とは,羽を垂らした,失敗した旅人の
ことであり,それは27歳で世を去った李賀のことを指す。
 韓愈の推挙を得,河南府試という官吏への予備試験へ合格
し,いよいよ本試験の進士科を受けるべく長安へ上京した李
賀は,進士の「進」と彼の亡き父晋粛の「晋」の字が同音で
あるゆえ諱(いみな)―これは皇帝や先祖を尊崇する礼法
であった―に触れるとの讒訴を受け,いわば永久に科挙
受験資格を剥奪されてしまう。
 そして,この挫折が決定的なものとなってあの壮絶な詩が
生まれた。

長安男児あり
二十にして心巳(すで)に朽つ
楞伽(りょうが) 案前に堆(うずたか)く
楚辞 肘後に繋げり
人生 窮拙あり
日暮 聊か飲酒
祇今(ただいま) 道巳に塞(ふさが)り
何ぞ必ずしも白首を須(ま)たん
                「贈陳商」

この「男児」の一語には,著者によれば「朽ちるべきでない
ものが,朽ちたという怨念がこめられている」ので
あり*1,李賀の詩にはこの恨みとも怒りとも悲しみとも言い切
れぬ激しい情念が溢れている。それは詩人の心情の吐露であ
るにとどまらず,詩人を取りまく世界をすら異様なものへ変
容させてしまう。たとえば

秋風 地を吹けば 百草乾けり
華容の碧影 晩寒を生ず
           「開愁歌」
草暖く 雲昏(くら)く 万里は春
      「出城寄権據楊敬之」
草の髪 恨みの鬢を垂れ
光の露 幽涙を泣けり
           「昌谷詩」

と歌われた自然は詩人の無念に呼応するかのようにグロテス
クな姿を見せている。
 W.ベンヤミンは,「話せないということ,これは自然の大
きな苦悩である」と言い,「もしも自然に言語が授けられた
なら,すべての自然は嘆きはじめるであろう」とも述べてい
るが*2,李賀の苦悩はまったく個人的なことに出発していなが
ら,まさにこの自然の中の無念の想い,嘆きの声を汲みとっ
たのだと言えるかもしれない。このことが李賀の鬼才と呼ば
れるゆえんであろう。鬼才の「鬼」とは,死霊のことである。
この語については,

鬼は,呼ぶものにあらず。呼びて来たる鬼,外道なり。鬼,
おのずから内にありて,しかも外より来る*3

という言葉にに勝るものはない。

 著者の解釈にはときにかなり踏み込んだ,大胆とも思える
箇所があるが,それは「解釈のわずらわしさを避けない心が
まえがなければ李賀の詩は読めない」という態度から来るも
ので,この姿勢があってこそ,李賀の評伝という困難な仕事
が為しえたのであろう。


李賀 垂翅の客

李賀 垂翅の客

*1:p.304.

*2:「言語一般および人間の言語について」『ベンヤミン・コレクション 1 ―近代の意味― 』,ちくま学芸文庫 1995所収; p.32f.

*3:「悲しみは満つ 千里の心」,本書 p.637.